人の世というのは、思いもよらぬことが起こってしまう。 椿事、兇変というのは、このことだろう。 2020年11月27日の金曜日の昼時、日本酒「白老」を醸す澤田酒造の麹室が全焼してしまった。
この日の、ちょうど同じ時刻。 昼食を終えた私は、神棚の下に居並ぶ酒瓶をみやっていた。 「今宵のお相手はどの日本酒に……むふふ」 週末の午後は、どうしても酒に気がいってしまう。外にでることもなく、机に齧りついて苦吟する日々であっても心は躍る。気分が華やぐ。 (……実際には鼻毛を抜いたり、大アクビをしたり、音楽を聴いていることのほうが多いのだけれど)
そして、酒のチョイスに悩むのが実に愉しい。 気分にそぐわぬ酒しかない場合は、早めに仕事を切りあげて馴染みの酒屋に足を運ぶ。時には電車に乗って二つ、三つ向こうの駅まで遠征する。そういう時の私の、日頃のノンベンダラリとは打って変わったテキパキぶり、同居するネコも呆れてヒゲをピクピクさせている。
さて――2020年11月27日はすぐに酒が決まった。 「よしよし、今夜のメインは澤田酒造の『白老 特別純米酒 若水100%』でいこう!」 何しろ澤田酒造の蔵には、この月の18日にお伺いしたばかり。 酒づくりの現場を拝見し、澤田薫蔵元や夫の英敏副社長、さらに蔵元の父母たる会長、夫人らに取材した。なかんずく、澤田副社長とは夜更けまで酌み交わした。土産に買い求めた「白老」は何銘柄かある。それらを順に開け、妻や息子にもお披露目をしていた。 今宵は最後にとっておいた特別純米酒を。 早くも晩酌を想い、舌なめずりどころか喉まで鳴らしていたのだから、ホントに私はおめでたい男だ。
前述したとおり、澤田酒造はこの金曜日の午後12時50分頃、火難にみまわれている。麹室をあたためる電熱線のショートが出火原因だという。もちろん、私はそんな大事になっているとは露もしらないでいた。
しばらくして、事件を知らせてくれたのはSNSでつながった澤田酒造の熱心なファンだった。声もないまま、あわててニュースを検索すると、地元局や新聞社の記事が掲載されている。東海地区版では大きなニュース扱いだ。さしもの私も茫然としてしまった。
とるものもとりあえず、澤田英敏副社長には「返信不要」と添えてお見舞いのメールを送った。 この夜、白老を呑んではみたが……さすがに心が落ち着かず、ただ闇雲に盃を重ねるばかりだった。
白老をめぐる奇遇はさらに続く。
翌28日の朝には蔵から「白老 純米酒 若水六割五分磨き 槽場直汲生原酒」が届いたのだ。
そこには澤田副社長からの短くもうれしいメッセージが。
「先日はご足労いただきありがとうございました。今月(11月)に仕込んだ、出来たての新酒です」
槽口からほとばしった酒をそのまま一升瓶に詰めたのを、間髪をおかずご送付いただいたことになる。
私は届いたばかりの「白老」の松葉色したラベルの一升瓶を抱いたまま、つぶやいた。
「この酒は――火災にあう直前に瓶詰された〝最後〟の白老じゃないか」
SNSには、義援金やクラウドファンディング、あるいは懇意のいくつかの蔵が復興に手を貸す……といった情報が流れはじめた。 いま私にできるのは、火事の後のあれこれで忙殺されている彼を邪魔することではない。 傍観者ならぬ「傍願者」とでもいうのだろうか、いち早い復興を祈るしかない。ただ吐息をつくだけの己が恨めしかった。
いずれ、このエッセイとは稿を別にして「澤田酒造訪問記」を書くつもりでいる。 澤田酒造が醸す「白老」には、かつて灘、伏見と肩をならべる酒造エリアだった知多半島の矜持がこもっている。木の甑や麹蓋をはじめ手のかかる、古いスタイルの醸造に強い想いを抱くこの蔵の酒は、ノスタルジックな風合いはもとより、唯一無二の絶妙の味わいがある。 「常滑は焼き物の町、とれたての海産物の豊富な町。白老はハードな仕事に従事する人たちに、こよなく愛されてきた酒です」 澤田副社長のいったことは、今もしっかりと私の耳に残っている。 時機と時期を待ち、火事の前と後、澤田の新旧の酒のインプレッションを書こう。
別稿では、この澤田副社長のことにもページを割きたい。 彼は六代目たる澤田薫蔵元の婿養子。明るく、笑顔を絶やさず、朗々たる声でハッキリとモノをいう。しかも決して謙虚さを失わない。 ハードロック、とりわけブラックサバスの大ファンで、自らもドラムを叩く。ちなみに、私は筋ガネの入った日本酒好きのオッサンであり、ロックにブルーズ、ファンクに根ざした音楽にも耳、いや眼がない。
澤田とはじめて出逢ったのは、何年前のことだったか。 東京の武蔵小山にある居酒屋「酒縁川島」が主催する日本酒の会だった。広い会場の片隅に異な人物がいる。ブラックサバスの黒いTシャツにデニム、白老の銘の入った前掛け。丸いメガネとヒゲ面。澤田は酒瓶を手にニコニコ笑っていた。
普段の酒の会なら――、 「どこの蔵です?」 「知多半島の常滑からきました」 「ではお奨めのを試飲させてもらおうかな」 「それなら、純米大吟のキンキンの冷酒をどうぞ」 てな、具合になるのだが――澤田の場合はちがった。
「テリー・アイオミのファン?」(テリーはサバスのギタリスト) 「彼だけじゃなくオジーはじめメンバー全員大好きです」 オモロイ、けったいな御仁だが、その面貌は実に人が好さそう。 「ほな、純米酒をいただこうかな」 「どうせなら、冷や(常温)でどうぞ」
こういう場所で高価な酒でなくスタンダードクラスを所望する私も奇特ならば、すかさず冷やで奨めてくる澤田の練達ぶりに思わずニヤリ。 「おぬし、できるな」 「いやいや、お手前こそ」 この時から、澤田英敏は、私にとって好ましく気の置けない人物になった。
令和3年4月11日
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