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澤田酒造と「白老」をめぐって(中)

 澤田酒造が見舞われた火災について書いていたのに、話が少しそれてしまった。 


ぼちぼち、少しの時間なら火事のことをきかせてもらってもいいだろう。こう思って電話をかけたのが2020(令和3)年12月の初め。澤田副社長はすぐに出てくれたものの、その声はさすがに翳りをおびていた。 「麹室は丸ごと焼けてしまいました」  二階にある室には私も入った。古い蔵だけあって内部を取り囲む杉板はいい具合の飴色になっていた。澤田副社長も蔵人たちと、この高温多湿の部屋で熱心に手を動かしていた。

 澤田酒造では、麹米を麹蓋に盛り分けるという手間のかかる方法を採用している。何枚もの麹蓋に小分けした麹米は、小まめに位置を変え、麹菌が均一に発育するよう条件を整えていく。澤田はいっていた。 「一定時間ごとの作業が必要なので、夜中も麹室に入ります」 


酒蔵をブラック企業呼ばわりするつもりはないけれど、これは過酷なルーティンだ。いきおい、多くの蔵では麹蓋より多くの量をさばけ面倒も減らせる箱麹、あるいは製麹のための機械を使用するようになっている。麹蓋を使用するのはグレードの高い酒に限るというケースも少なくない。しかし、澤田は誇らしげに語った。 「ウチは普通酒から純米大吟醸まですべて麹蓋。おそらく深夜作業を行っているのは、愛知でもウチだけじゃないでしょうか」

 そうか、あの麹室が丸焦げになってしまったのか――私は、電話口で悄然とした。澤田も絞り出すように語った。 「麹室は二階でしたから屋根もアウトです。他にも細かな被害はかなりあり損害額はまだ把握しきれていません。当分の間、酒づくりは不可能でしょうね」  しばし口をつぐむ私。澤田は問わず語りのようにいった。 「不幸中の幸いというんでしょうか、けが人は出ませんでしたし、蔵の他の部分も焼けていません」

 たちまちにして、釜場やタンク、井戸、販売所などが瞼に浮かびあがってきた。類焼しなかったのは僥倖というべきだ。  しかし、消火の水で蔵はびしょ濡れになっているだろうし、何より火事の後の焦げた臭いを取るのは、なまなかのことではあるまい。日本酒づくりの工程は、いずれも細心かつ繊細な神経戦ともいえる。蔵のあちこちに、悪臭がふんぷんとしていれば悪影響を及ぼすのは必至……。

「僕も今は鼻が臭いに慣れてしまっていますが、しばらく蔵をあけてから嗅いだら、きっとかなり臭うでしょうね。それが酒づくりにどんな影響を与えるかは、これから様子をみなければわかりません」  まして、再建のためには莫大な費用が必要になる。澤田は心底つらそうに話した。 「全焼ではないので火災保険は全額が降りません。これから本格的に金策に駆け回ります」  前澤某やナントカエモンならぬ我が身、カネにモノいわすことの叶わぬ貧乏作家はここでも沈黙するしかない。

 さらに――この蔵は火事に続いて思いもよらぬ訃報に涙していた。 「澤田政吉元専務が98歳で身罷りました。このことも、私や社長にとっては、かなり重かったです。専務は澤田酒造の酒づくりの道標というべき大きな存在でしたから」


 政吉元専務は現会長の叔父にあたる。入り婿の澤田が副社長に就けたのも、この専務が株を譲ってくれたから。酒づくりのみならず、世事のあれこれを折につけ教えてくれた人生の先達でもあったという。 「元専務は火事のことをとても心配してくださり、火事の直後にもお見舞いに駆けつけてくださいました。火災でへこんでしまうのではなく、むしろ好機にかえ、新しい澤田酒造のスタートだと心得なさい――こんなメッセージを残していただきました」  そして、元専務は冬の日の朝、ベッドから起きて床に立とうとした時に召された。澤田は搾りだすようにいった。 「まさに大往生、天寿を全うしました」


 その後もあれこれと話題は尽きない。  しかし、どう転ぼうが、話は湿りがちになってしまう。  励ましとお見舞いの言葉を添えるしかないのが、我ながら、どうにも情けない。そうこうしながら電話を終えようとしたとき、澤田が存外に大きな力強い声を奮ってくれた。 「どうか心配しないでください。僕らはもう前を向いています。全国の日本酒ファンから暖かいメッセージもいただいています。オンライン通販のサイトもパンクするほど注文が。大丈夫、何としても酒づくりは諦めません。これからの澤田酒造に注目してください」


令和3年4月11日

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